三国同盟秘史
リッベントロップ(第10話)
ベローナ、ニュルンベルク、東京
第一次世界大戦後の社会不安を背景に1922年にはもうローマ進軍で政権を獲得していたムッソリーニは、ウィーンの下層労働者で学歴もないヒトラーのことを当初は軽蔑していたが、ヒトラーの政権獲得後の2度目のイタリア訪問の頃から立場は逆転し始める。その後のヒトラーの外交上の成功にも影響されて、スペイン内乱への介入やアルバニア保護国化や第二次世界大戦中立までは良かったが、ヒトラーの西部戦線における大成功に幻惑され対英仏参戦以降はイタリアの国力と軍隊の士気という点ではドイツとは比べ物にならなかった。ヒトラーが遠大な理想を掲げたのでムッソリーニもローマ帝国の在りし日の繁栄を再現すべく地中海沿岸を全てイタリアのものとするオクタヴィアヌスを目指して侵略を開始した。しかし、1941年には早くもギリシャで躓き北アフリカでもイギリス軍に苦戦しドイツのロンメル将軍の登場となったのであった。ソ連にも宣戦布告しているが、ドイツは他の同盟諸国と同様補助軍ぐらいにしか見ず側面援助くらいの役割であったが、ルーマニア軍やハンガリー軍と同じくソ連からは戦線崩しに狙われることとなり面目丸潰れとなった。こんな状況で、ヒトラーにソ連と講和してきたるべき英米との対決とイタリアの防衛にドイツ軍を割いてほしいとはあまりにも虫がいい話でヒトラーからは全く相手にもされなかった。おまけに、ムッソリーニの娘エッダの夫であったチアノ伯爵はドイツからは全く信頼を置かれなかった。ヒトラーはチアノのことを『胸の悪くなるような若僧』と呼んでいた。そもそもチアノは外相というよりムッソリーニの伝令の役割であった。そのことが彼の評価を非常に難しくしていると言えよう。夫婦揃って公然と愛人を持ち、特にエッダ夫人の上海駐在時の張学良将軍との恋仲は有名であるし、アルバニア保護国化と支配においてはかなり過酷なこともしたようだがドイツとの同盟に関しては一貫して反対だったようである。岳父にドイツと縁を切れとそれとなく仄めかした事はあるようだが相手にされなかった。
イタリア王国は建国において親仏政策から親独政策へうまく乗り換え未回収のイタリアを次々に回復したがビスマルク引退後の対独包囲網の形成の中でうまく英仏側に乗り換え第一次世界大戦の戦勝国となった。では第二次世界大戦はどうであったか。ドイツの領土回復拡大に幻惑され、スペイン内乱参加、アルバニア保護国化、フランス降伏直前の対英仏戦参加までは順調だったかもしれないが、イギリス崩壊を前提とした英領エジプトへの侵略からシナリオが狂ってきた。エジプトでは補給と軍の自動車化が未整備のために第10軍が壊滅状態になったし、その後のギリシャ侵略も失敗してドイツ軍の援助を受けることになった。ドイツ軍が勝っている間は良かったが、スターリングラードにおけるドイツ第6軍の壊滅とエジプトのエルアラメインでのロンメル軍の敗退でドイツ敗戦が見えてきたが、第一次世界大戦の時のようにうまく乗り換えることは出来なかった。国内では北部のミラノやトリノを中心に大規模なゼネストが頻発しそれに伴い王権の回復による休戦要求運動が高まりつつあった。1943年5月のチュニジアでの独伊軍の降伏、7月のシチリア島への連合軍の上陸によりイタリア本土での戦いになる前に休戦を目指す水面化の運動が軍の中で進行した。ヒトラーもイタリアの状態を熟知していて、1943年の4月にはザルツブルクで、7月にはフェルトレでムッソリーニと会談を持ったが、会談とは名ばかりのヒトラーの独演会だったし、フェルトレの時にちょうどローマ初空襲の報が入り階段どころではなくなった。イタリア国王エマヌエーレ3世の元にバドリオ元帥、デボーノ元帥、ムッソリーニの娘婿のチアノ前外相が結集して、1939年以来開催されていないファシスト大評議会が7月25日に開催された。19対8で立憲君主制の回復が決定されて、夜中の0時を過ぎて王宮に呼び出されたムッソリーニはその場で職を解かれ逮捕の上救急車に乗せられて警察署に連行された。この情報は直ちにドイツに察知され27日の東プロイセンのラステンブルクのある総統大本営『狼の砦』での緊急会議で、東部戦線での夏季攻勢の中止とイタリアに対して4つの作戦を命令した。(1)『柏』作戦 ムッソリーニの救出 (2)『シュトウデント』作戦 ローマ占領 (3)『黒』作戦 全イタリア占領 (4)『枢軸』作戦 イタリア艦隊のドイツへの引き渡し。このようなドイツ側の対応は当然予測されているから、イタリア旧オーストリア国境のトンネルの爆破などが考えられるが、ドイツ側に付くか連合国側に付くかで二分されていたので実行は不可能であった。特に(3)は東部戦線からの重戦車『虎』を有する精鋭部隊のローマ以北への到着が非常に早かった。(1)に関しては、チレニア海の島を何箇所か移動させたがドイツ側の察知が早く結局アペニン山脈のグランサッソ山頂に監禁されたが、上司のシェレンベルク、カルテンブルンナー、ヒムラーを飛び越えてヒトラーから直接命令を受けたオットー スコルツェニーSS中佐が指揮する特殊部隊のグライダーによる奇襲により一発も撃たずにムッソリーニ救出に成功した。警察内もドイツ側に付くものも少なからずいたのでムッソリーニの所在は即ドイツ側に伝わっていたのであろう。このような状況なので、軍部と連合国側との交渉も非常に困難であったが、カステラーノ将軍らが陸路南フランス経由でポルトガルでの交渉に一応成功してローマに無事帰還し今度はシチリア島のシラクサ近郊のカッシービレで連合国軍最高司令官のアイゼンハワーと休戦にまで漕ぎ着けたが、カステラーノ将軍らが要望したローマ近郊への上陸と空挺部隊によるローマ制圧は実行されず、ナポリの南サレルノへの上陸が行われただけであった。ローマ周辺にはイタリア軍が5個師団に対してドイツ軍は2個師団だったから、司令官のケッセルリンクたちはイタリア軍が平穏に武装解除され連合軍の上陸もサレルノだったことに安堵した。ロンメル将軍によるイタリア全土占領と救出されたムッソリーニによる北部のガルダ湖畔のガルダーノにイタリア社会共和国が新たに建国されたが完全にドイツの傀儡政権であった。合流したグラッチアーニ元帥らによりドイツ流の訓練による陸軍が創設され北上する連合軍との間に激戦となり連合国の北上が遅れ犠牲者も増大した。半年もかかったモンテカッシーノの戦いは有名だが、ローマの北のゴシックラインにおける戦闘でも多くの死者がでたが,連合国側では特に日系人とアフリカ系の人々の犠牲は顕著でのちの1950年代から始まる有色人種の平等化運動の契機となった。結局連合国のミラノ到達とドイツの降伏はほぼ同じとなってしまった。1943年9月のドイツ側のイタリア占領により国王エマヌエーレ3世、バドリオ元帥らは辛くもローマを脱出したが脱出に失敗したものも多数いた。中でも、チアノ前外相はドイツ側に誘われて家族ごとミュンヘンに滞在していたがスペイン亡命を計画とされ逮捕ベローナに監禁された。7月24日の裏切り者に対する報復はヒトラーの厳命であり容疑者はベローナに監禁され、1944年1月に見せ物裁判にかけられた。それを知ったチアノの妻は夫の救出を決意し、夫の残したドイツ側に不利な内容を多数含む日記を取引に使うこととした。RSHA長官のカルテンブルンナーと外国情報局長で国防軍情報局も兼ねるシェレンベルクはこの取引に応じることとしたがヒトラーが途中で却下したため、ベローナ郊外でチアノの引き渡し、トルコ入国後に日記のうち6冊分をドイツ側に渡す『伯爵』作戦は失敗に終わった。1月11日朝、ムッソリーニはイタリア駐在のSS代表であったカール ヴォルフ将軍にチアノの除名を嘆願したが、9時20分裏切り者という意味からか背中を向けての銃殺刑になった。それでも何とか後ろを向こうとチアノ前外相はもがいていたようだ。夫を殺された妻のエッダは、スカートの中に夫の日記を隠して何とかスイス入国に成功し早速これをアメリカ紙を通じて公表した。救出されたムッソリーニは完全に意気消沈していて老人化していてもはや失うものは何もなかったであろう。ガルダーノにデイートリッヒSS将軍が愛人のクララ ペタッチを連れてきてくれたがこれがせめてもの慰めであったろう。ヒトラーとは暗殺未遂事件があった1944年7月20日にラステンブルクの『狼の砦』で14回目となる最後の会談を持ったが終始無言でナチス高官らによる口喧嘩に付き合わされた。先述のヴォルフ将軍とスイスのアレンダレスとの休戦交渉によりドイツ軍が本国に帰還する時に発見され射殺され、ヒトラーが自殺する前日の1945年4月29日ミラノで愛人のクララ ペタッチと共に逆さずりとなった。
エッダが夫の日記で恨みを晴らそうとしたヒトラー、リッベントロップ、ゲーリングなどはこの日記がなくても死刑であったろう。戦後のニュルンベルク裁判における訴因は大きく分ければ侵略や戦争を起こしたことと人道に反した行為を起こしたことになるが3人とも完全に有罪なことは明白で、ナチス指導者は裁判抜きで処刑も検討されたくらいであった。チアノに『間抜け』と評されたリッベントロップ外相でも1943年夏季攻勢失敗とイタリア降伏でドイツの敗北は確信していたろう。そうなれば自分もただでは済まないことは十分承知していたはずであった。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件にはシューレンブルク駐ソ大使やハッセル駐伊大使など外務省関係者が多数加わっていたことでヒトラーからリッベントロップは外務省を十分把握できていないのではと疑われた。職業外交官ではないリッベントロップ機関出身の政治任命の外交官は最大でも三分の一程度で、残りは保守的で元々ヒトラーの侵略に反対だったからこれも当然と言えるであろう。1944年までに占領国や保護国が次々と脱落していきユダヤ人移送以外外務省の仕事は無くなっていた。1945年になりソ連軍がオーデル川に達してきて、リッベントロップも独ソ休戦を実現すべく、妻のアネリースをソ連の駐スウェーデン大使のコロンタイ女史に会わせて交渉させることや自分と家族がモスクワに人質になって交渉することなどをヒトラーに提案しているが『ヘスの二の舞いはやめてくれ』と却下された。大島浩駐独大使にはスウェーデン駐在の陸軍武官の小野寺信将軍をわざわざベルリンまで呼び出してスウェーデンでの独ソ休戦打診を依頼するもソ連側から全く相手にされなかった。この降伏直前に至るまでユダヤ人の移送と1944年7月20日事件の報復は続いていた。前者を担ったのがドイツ外務省第二局でありかつてのルターが仕切ったドイツ局を改組したものであった。大島浩駐独大使一行をオーストリアの安全な保養地バートガシュタインにささやかなお別れパーティーの後見送り、4月20日のヒトラー56歳の誕生日に出席した後、北の司令部が置かれたデンマーク国境に近いフレンスブルクに向かった。ヒトラーから大統領に任命されたデーニッツ提督は外相には前財務相でオックスフォード大卒のローズ奨学生フォン クロージク伯爵に決定していたことに落胆し、ハンブルクの爆撃を逃れた数少ないアパートの一角に住み、元の実業家に戻り知り合いと連絡を取り合い紺のダブルスーツに身を包みホンブルク帽を被り社会復帰を果たそうとした。1945年6月14日早朝、密告を受けたイギリス軍によりアパートを急襲され逮捕の上ルクセンブルクのモンドルフのホテルに連行された。そこには馴染みの顔が多くいた。ゲーリング、ヘス、カイテル、ヨードル、カルテンブルンナー、シュペーア、デーニッツなどであった。8月にニュルンベルクに移送された。平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪全てに完全に有罪であるリッベントロップはゲーリングやカルテンブルンナーらと共に死刑が確実視された。この場に至ってもヒトラーに対する忠誠は揺るがず、『総統がもしここにいて命令したら私はその通りやる』と裁判中でも言っている。結局、リッベントロップは起訴され有罪になったが、それは1938年1月2日付の妻のアネリースにも手伝ってもらったヒトラー宛の覚書つまり大使報告書A5522、ズデーテン問題への関与、ポーランド問題への関与、ユダヤ人移送支援に関する全外務省職員に対する命令であった。A5522は1937年末のノイラートの退職と自らの外相就任発言による叱責直後の夫婦の共同作業であったがまさかこれがニュルンベルク裁判で重要視されるとは思ってもみなかったであろう。1946年10月1日、他の11人とともに絞首刑の判決を受けた。それから数日は回顧録を書いたり裁判所への抗議文を書き、前者はのちに妻によって出版されたがほとんど自己弁護に終始していた。処刑場がどこになるかはいろいろ噂されていたが結局体育館の中ということになった。この頃長男のルドルフも武装親衛隊の将校として、バルバロッサ作戦、クルスク戦車戦、ノルマンディでの戦いなど大戦中の多くの激戦に参加したが生き延びアメリカ軍の捕虜になっていたが、父親の処刑に間に合うように仮釈放の上で最後の面会を許された。前々日にはルドルフに、前日にはアネリースに最後の手紙を書いた。1946年10月16日午前1時、手錠をかけられて新教牧師とアメリカ軍兵士および弁護人とともに体育館に設けられた処刑場へと向かった。ゲーリングが死刑直前に持ち込んだか身につけていたかの青酸カリで自殺していたため、リッベントロップが最初の絞首刑となった。完全に息がなくなるまで10分もかかり鼻に綿を入れられての絶命となったが、他の被告の処刑も総じて手際は良くなかった。ニュルンベルク裁判は終わったが、12の継続裁判が行われたが、その中で最も注目されたのが大臣裁判であった。ヴァイツゼッカー次官、シュテーングラハト次官、リッベントロップの駐英大使時代にゴルフもやったヴェールマン政治部長、ヴェールマンの部下エルトマンスドルフなど外務省関係者が有罪判決を受けた。度々登場したRSHA第6局の外国情報局長のヴァルター シェレンベルクも6年の有期刑を宣告されたがSS高官が次々に死刑になっているのに軽い刑罰しかも刑期経過のため釈放、スイスを経てイタリアで客死、葬儀もあのココ シャネルによるものと言われている。ヒムラーやハイトリッヒのSS内だけでなく、リッベントロップ外相、『我が息子』と呼んだカナリス国防軍情報部長官、クロージク財務相など他の組織、大戦末期に休戦交渉したスウェーデン人のベルナドッテ伯爵、そしてこのココ シャネルらにも好かれたイケメン弁護士。非常に不思議とも言える。シェレンベルクに関しては後日機会があれば取り上げてみたい。
このリッベントロップと親密であった『ドイツ駐在ドイツ大使』の大島浩将軍は1945年4月14日、第2陣でベルリンのティアガルテン地区にあったナチス時代の代表的建造物であった数々の思い出のある大使館を後にした。ゲッベルス宣伝相が得意のベートーヴェンピアノソナタ『悲愴』を演奏したこともあった。ベルリンを包囲しつつあったソ連軍を避けて爆撃で廃墟となったドレスデン経由でオーストリアのバートガシュタインにのカイザーホフホテルに到着した。ここはナチス高官および家族の避難所になっていて食べ物が豊富にあり別天地であった。それでも将軍好みのつまみが少なかったためベルリンに籠城していた若い外交官補の吉野文六につまみをわざわざアメリカ軍の機銃掃射を避けつつ命がけで持ってこさせたこともあった。少し前にも有名な退役したボック元帥が東プロイセンから西に避難する最中に機銃掃射で死んだとの報があった。将軍は噂されるアルプス要塞と北のフレンスブルクのデーニッツ提督たちがいるからまだドイツは頑張れると思っていたらしいが、提督はヒトラーの自殺後は降伏の道を選んだ。1945年5月11日、進駐してきたアメリカ軍に対して抵抗を主張する館員もいたが武器を取り上げて降伏した。日本の降伏を知ったのは護送されたアメリカにおいてであった。西海岸のシアトル港から、妻の豊子、他の館員や邦人民間人とともに日本へ護送されが、中には指揮者の近衛文麿の異母兄弟の近衛秀麿、ヴァイオリニストの諏訪根自子もいた。1945年12月日本に帰国すると『政治家にでもなるか』と周囲に話していたらしいが、GHQに逮捕され東京裁判に被告として出廷した。そこには、重病の松岡洋右元外相や大島浩と共に三国同盟に締結に貢献した白鳥敏夫などもいた。後者は、駐伊大使以外は目立った役職はないが度々外務省革新派や陸軍から外務次官就任要請されていたが、駐伊大使もその要請をかわすためのものであった。この3人の三国同盟組は、他の被告からは浮いた存在となりニュルンベルク裁判におけるSSを代表したカルテンブルンナーのような形となってしまった。1978年にA級戦犯も靖国神社に合祀されたが当時の昭和天皇の『松岡、白鳥までも』にそれがよくあらわれている。松岡洋右は裁判中に病死、『薩摩が生んだ快男児、姓は大山名は巌。上総が生んだ快男児、性は白鳥名は敏夫』と言われた白鳥敏夫は、戦前戦中の過激な言動から『日本のゲッベルス』と見られて終身刑となったが翌年癌で病死、大島浩は一票差で死刑を免れ終身刑となった。1955年、恩赦で仮釈放となり茅ヶ崎に隠遁した。自民党からの政界出馬要請も『私は国をミスリードした男』と断ったが、読んでいた本はナチスドイツ関連の本が多く、ヒトラーのことを『アレクサンダー、ナポレオンに次ぐ天才』と言っていたようで、どうして自分の判断が間違ったか自問自答していたのであろう。多くの人が言うように『あれほどのドイツ贔屓はいなかったな』それがヒトラー時代という不運と重なったのかもしれない。
イタリア王国は建国において親仏政策から親独政策へうまく乗り換え未回収のイタリアを次々に回復したがビスマルク引退後の対独包囲網の形成の中でうまく英仏側に乗り換え第一次世界大戦の戦勝国となった。では第二次世界大戦はどうであったか。ドイツの領土回復拡大に幻惑され、スペイン内乱参加、アルバニア保護国化、フランス降伏直前の対英仏戦参加までは順調だったかもしれないが、イギリス崩壊を前提とした英領エジプトへの侵略からシナリオが狂ってきた。エジプトでは補給と軍の自動車化が未整備のために第10軍が壊滅状態になったし、その後のギリシャ侵略も失敗してドイツ軍の援助を受けることになった。ドイツ軍が勝っている間は良かったが、スターリングラードにおけるドイツ第6軍の壊滅とエジプトのエルアラメインでのロンメル軍の敗退でドイツ敗戦が見えてきたが、第一次世界大戦の時のようにうまく乗り換えることは出来なかった。国内では北部のミラノやトリノを中心に大規模なゼネストが頻発しそれに伴い王権の回復による休戦要求運動が高まりつつあった。1943年5月のチュニジアでの独伊軍の降伏、7月のシチリア島への連合軍の上陸によりイタリア本土での戦いになる前に休戦を目指す水面化の運動が軍の中で進行した。ヒトラーもイタリアの状態を熟知していて、1943年の4月にはザルツブルクで、7月にはフェルトレでムッソリーニと会談を持ったが、会談とは名ばかりのヒトラーの独演会だったし、フェルトレの時にちょうどローマ初空襲の報が入り階段どころではなくなった。イタリア国王エマヌエーレ3世の元にバドリオ元帥、デボーノ元帥、ムッソリーニの娘婿のチアノ前外相が結集して、1939年以来開催されていないファシスト大評議会が7月25日に開催された。19対8で立憲君主制の回復が決定されて、夜中の0時を過ぎて王宮に呼び出されたムッソリーニはその場で職を解かれ逮捕の上救急車に乗せられて警察署に連行された。この情報は直ちにドイツに察知され27日の東プロイセンのラステンブルクのある総統大本営『狼の砦』での緊急会議で、東部戦線での夏季攻勢の中止とイタリアに対して4つの作戦を命令した。(1)『柏』作戦 ムッソリーニの救出 (2)『シュトウデント』作戦 ローマ占領 (3)『黒』作戦 全イタリア占領 (4)『枢軸』作戦 イタリア艦隊のドイツへの引き渡し。このようなドイツ側の対応は当然予測されているから、イタリア旧オーストリア国境のトンネルの爆破などが考えられるが、ドイツ側に付くか連合国側に付くかで二分されていたので実行は不可能であった。特に(3)は東部戦線からの重戦車『虎』を有する精鋭部隊のローマ以北への到着が非常に早かった。(1)に関しては、チレニア海の島を何箇所か移動させたがドイツ側の察知が早く結局アペニン山脈のグランサッソ山頂に監禁されたが、上司のシェレンベルク、カルテンブルンナー、ヒムラーを飛び越えてヒトラーから直接命令を受けたオットー スコルツェニーSS中佐が指揮する特殊部隊のグライダーによる奇襲により一発も撃たずにムッソリーニ救出に成功した。警察内もドイツ側に付くものも少なからずいたのでムッソリーニの所在は即ドイツ側に伝わっていたのであろう。このような状況なので、軍部と連合国側との交渉も非常に困難であったが、カステラーノ将軍らが陸路南フランス経由でポルトガルでの交渉に一応成功してローマに無事帰還し今度はシチリア島のシラクサ近郊のカッシービレで連合国軍最高司令官のアイゼンハワーと休戦にまで漕ぎ着けたが、カステラーノ将軍らが要望したローマ近郊への上陸と空挺部隊によるローマ制圧は実行されず、ナポリの南サレルノへの上陸が行われただけであった。ローマ周辺にはイタリア軍が5個師団に対してドイツ軍は2個師団だったから、司令官のケッセルリンクたちはイタリア軍が平穏に武装解除され連合軍の上陸もサレルノだったことに安堵した。ロンメル将軍によるイタリア全土占領と救出されたムッソリーニによる北部のガルダ湖畔のガルダーノにイタリア社会共和国が新たに建国されたが完全にドイツの傀儡政権であった。合流したグラッチアーニ元帥らによりドイツ流の訓練による陸軍が創設され北上する連合軍との間に激戦となり連合国の北上が遅れ犠牲者も増大した。半年もかかったモンテカッシーノの戦いは有名だが、ローマの北のゴシックラインにおける戦闘でも多くの死者がでたが,連合国側では特に日系人とアフリカ系の人々の犠牲は顕著でのちの1950年代から始まる有色人種の平等化運動の契機となった。結局連合国のミラノ到達とドイツの降伏はほぼ同じとなってしまった。1943年9月のドイツ側のイタリア占領により国王エマヌエーレ3世、バドリオ元帥らは辛くもローマを脱出したが脱出に失敗したものも多数いた。中でも、チアノ前外相はドイツ側に誘われて家族ごとミュンヘンに滞在していたがスペイン亡命を計画とされ逮捕ベローナに監禁された。7月24日の裏切り者に対する報復はヒトラーの厳命であり容疑者はベローナに監禁され、1944年1月に見せ物裁判にかけられた。それを知ったチアノの妻は夫の救出を決意し、夫の残したドイツ側に不利な内容を多数含む日記を取引に使うこととした。RSHA長官のカルテンブルンナーと外国情報局長で国防軍情報局も兼ねるシェレンベルクはこの取引に応じることとしたがヒトラーが途中で却下したため、ベローナ郊外でチアノの引き渡し、トルコ入国後に日記のうち6冊分をドイツ側に渡す『伯爵』作戦は失敗に終わった。1月11日朝、ムッソリーニはイタリア駐在のSS代表であったカール ヴォルフ将軍にチアノの除名を嘆願したが、9時20分裏切り者という意味からか背中を向けての銃殺刑になった。それでも何とか後ろを向こうとチアノ前外相はもがいていたようだ。夫を殺された妻のエッダは、スカートの中に夫の日記を隠して何とかスイス入国に成功し早速これをアメリカ紙を通じて公表した。救出されたムッソリーニは完全に意気消沈していて老人化していてもはや失うものは何もなかったであろう。ガルダーノにデイートリッヒSS将軍が愛人のクララ ペタッチを連れてきてくれたがこれがせめてもの慰めであったろう。ヒトラーとは暗殺未遂事件があった1944年7月20日にラステンブルクの『狼の砦』で14回目となる最後の会談を持ったが終始無言でナチス高官らによる口喧嘩に付き合わされた。先述のヴォルフ将軍とスイスのアレンダレスとの休戦交渉によりドイツ軍が本国に帰還する時に発見され射殺され、ヒトラーが自殺する前日の1945年4月29日ミラノで愛人のクララ ペタッチと共に逆さずりとなった。
エッダが夫の日記で恨みを晴らそうとしたヒトラー、リッベントロップ、ゲーリングなどはこの日記がなくても死刑であったろう。戦後のニュルンベルク裁判における訴因は大きく分ければ侵略や戦争を起こしたことと人道に反した行為を起こしたことになるが3人とも完全に有罪なことは明白で、ナチス指導者は裁判抜きで処刑も検討されたくらいであった。チアノに『間抜け』と評されたリッベントロップ外相でも1943年夏季攻勢失敗とイタリア降伏でドイツの敗北は確信していたろう。そうなれば自分もただでは済まないことは十分承知していたはずであった。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件にはシューレンブルク駐ソ大使やハッセル駐伊大使など外務省関係者が多数加わっていたことでヒトラーからリッベントロップは外務省を十分把握できていないのではと疑われた。職業外交官ではないリッベントロップ機関出身の政治任命の外交官は最大でも三分の一程度で、残りは保守的で元々ヒトラーの侵略に反対だったからこれも当然と言えるであろう。1944年までに占領国や保護国が次々と脱落していきユダヤ人移送以外外務省の仕事は無くなっていた。1945年になりソ連軍がオーデル川に達してきて、リッベントロップも独ソ休戦を実現すべく、妻のアネリースをソ連の駐スウェーデン大使のコロンタイ女史に会わせて交渉させることや自分と家族がモスクワに人質になって交渉することなどをヒトラーに提案しているが『ヘスの二の舞いはやめてくれ』と却下された。大島浩駐独大使にはスウェーデン駐在の陸軍武官の小野寺信将軍をわざわざベルリンまで呼び出してスウェーデンでの独ソ休戦打診を依頼するもソ連側から全く相手にされなかった。この降伏直前に至るまでユダヤ人の移送と1944年7月20日事件の報復は続いていた。前者を担ったのがドイツ外務省第二局でありかつてのルターが仕切ったドイツ局を改組したものであった。大島浩駐独大使一行をオーストリアの安全な保養地バートガシュタインにささやかなお別れパーティーの後見送り、4月20日のヒトラー56歳の誕生日に出席した後、北の司令部が置かれたデンマーク国境に近いフレンスブルクに向かった。ヒトラーから大統領に任命されたデーニッツ提督は外相には前財務相でオックスフォード大卒のローズ奨学生フォン クロージク伯爵に決定していたことに落胆し、ハンブルクの爆撃を逃れた数少ないアパートの一角に住み、元の実業家に戻り知り合いと連絡を取り合い紺のダブルスーツに身を包みホンブルク帽を被り社会復帰を果たそうとした。1945年6月14日早朝、密告を受けたイギリス軍によりアパートを急襲され逮捕の上ルクセンブルクのモンドルフのホテルに連行された。そこには馴染みの顔が多くいた。ゲーリング、ヘス、カイテル、ヨードル、カルテンブルンナー、シュペーア、デーニッツなどであった。8月にニュルンベルクに移送された。平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪全てに完全に有罪であるリッベントロップはゲーリングやカルテンブルンナーらと共に死刑が確実視された。この場に至ってもヒトラーに対する忠誠は揺るがず、『総統がもしここにいて命令したら私はその通りやる』と裁判中でも言っている。結局、リッベントロップは起訴され有罪になったが、それは1938年1月2日付の妻のアネリースにも手伝ってもらったヒトラー宛の覚書つまり大使報告書A5522、ズデーテン問題への関与、ポーランド問題への関与、ユダヤ人移送支援に関する全外務省職員に対する命令であった。A5522は1937年末のノイラートの退職と自らの外相就任発言による叱責直後の夫婦の共同作業であったがまさかこれがニュルンベルク裁判で重要視されるとは思ってもみなかったであろう。1946年10月1日、他の11人とともに絞首刑の判決を受けた。それから数日は回顧録を書いたり裁判所への抗議文を書き、前者はのちに妻によって出版されたがほとんど自己弁護に終始していた。処刑場がどこになるかはいろいろ噂されていたが結局体育館の中ということになった。この頃長男のルドルフも武装親衛隊の将校として、バルバロッサ作戦、クルスク戦車戦、ノルマンディでの戦いなど大戦中の多くの激戦に参加したが生き延びアメリカ軍の捕虜になっていたが、父親の処刑に間に合うように仮釈放の上で最後の面会を許された。前々日にはルドルフに、前日にはアネリースに最後の手紙を書いた。1946年10月16日午前1時、手錠をかけられて新教牧師とアメリカ軍兵士および弁護人とともに体育館に設けられた処刑場へと向かった。ゲーリングが死刑直前に持ち込んだか身につけていたかの青酸カリで自殺していたため、リッベントロップが最初の絞首刑となった。完全に息がなくなるまで10分もかかり鼻に綿を入れられての絶命となったが、他の被告の処刑も総じて手際は良くなかった。ニュルンベルク裁判は終わったが、12の継続裁判が行われたが、その中で最も注目されたのが大臣裁判であった。ヴァイツゼッカー次官、シュテーングラハト次官、リッベントロップの駐英大使時代にゴルフもやったヴェールマン政治部長、ヴェールマンの部下エルトマンスドルフなど外務省関係者が有罪判決を受けた。度々登場したRSHA第6局の外国情報局長のヴァルター シェレンベルクも6年の有期刑を宣告されたがSS高官が次々に死刑になっているのに軽い刑罰しかも刑期経過のため釈放、スイスを経てイタリアで客死、葬儀もあのココ シャネルによるものと言われている。ヒムラーやハイトリッヒのSS内だけでなく、リッベントロップ外相、『我が息子』と呼んだカナリス国防軍情報部長官、クロージク財務相など他の組織、大戦末期に休戦交渉したスウェーデン人のベルナドッテ伯爵、そしてこのココ シャネルらにも好かれたイケメン弁護士。非常に不思議とも言える。シェレンベルクに関しては後日機会があれば取り上げてみたい。
このリッベントロップと親密であった『ドイツ駐在ドイツ大使』の大島浩将軍は1945年4月14日、第2陣でベルリンのティアガルテン地区にあったナチス時代の代表的建造物であった数々の思い出のある大使館を後にした。ゲッベルス宣伝相が得意のベートーヴェンピアノソナタ『悲愴』を演奏したこともあった。ベルリンを包囲しつつあったソ連軍を避けて爆撃で廃墟となったドレスデン経由でオーストリアのバートガシュタインにのカイザーホフホテルに到着した。ここはナチス高官および家族の避難所になっていて食べ物が豊富にあり別天地であった。それでも将軍好みのつまみが少なかったためベルリンに籠城していた若い外交官補の吉野文六につまみをわざわざアメリカ軍の機銃掃射を避けつつ命がけで持ってこさせたこともあった。少し前にも有名な退役したボック元帥が東プロイセンから西に避難する最中に機銃掃射で死んだとの報があった。将軍は噂されるアルプス要塞と北のフレンスブルクのデーニッツ提督たちがいるからまだドイツは頑張れると思っていたらしいが、提督はヒトラーの自殺後は降伏の道を選んだ。1945年5月11日、進駐してきたアメリカ軍に対して抵抗を主張する館員もいたが武器を取り上げて降伏した。日本の降伏を知ったのは護送されたアメリカにおいてであった。西海岸のシアトル港から、妻の豊子、他の館員や邦人民間人とともに日本へ護送されが、中には指揮者の近衛文麿の異母兄弟の近衛秀麿、ヴァイオリニストの諏訪根自子もいた。1945年12月日本に帰国すると『政治家にでもなるか』と周囲に話していたらしいが、GHQに逮捕され東京裁判に被告として出廷した。そこには、重病の松岡洋右元外相や大島浩と共に三国同盟に締結に貢献した白鳥敏夫などもいた。後者は、駐伊大使以外は目立った役職はないが度々外務省革新派や陸軍から外務次官就任要請されていたが、駐伊大使もその要請をかわすためのものであった。この3人の三国同盟組は、他の被告からは浮いた存在となりニュルンベルク裁判におけるSSを代表したカルテンブルンナーのような形となってしまった。1978年にA級戦犯も靖国神社に合祀されたが当時の昭和天皇の『松岡、白鳥までも』にそれがよくあらわれている。松岡洋右は裁判中に病死、『薩摩が生んだ快男児、姓は大山名は巌。上総が生んだ快男児、性は白鳥名は敏夫』と言われた白鳥敏夫は、戦前戦中の過激な言動から『日本のゲッベルス』と見られて終身刑となったが翌年癌で病死、大島浩は一票差で死刑を免れ終身刑となった。1955年、恩赦で仮釈放となり茅ヶ崎に隠遁した。自民党からの政界出馬要請も『私は国をミスリードした男』と断ったが、読んでいた本はナチスドイツ関連の本が多く、ヒトラーのことを『アレクサンダー、ナポレオンに次ぐ天才』と言っていたようで、どうして自分の判断が間違ったか自問自答していたのであろう。多くの人が言うように『あれほどのドイツ贔屓はいなかったな』それがヒトラー時代という不運と重なったのかもしれない。