三国同盟秘史
リッベントロップ(第9話)
最終的解決
第二次世界大戦が始まってからは外交が活躍できる範囲は大幅に縮小した。活躍したことの証は、占領した面積や撃滅した敵戦力などとなりそれは軍人の担当範囲であった。外交が次に活躍できることがあるとすれば戦争を終わらす時であるが、日本の場合には多少なりとも機能したが、ドイツやイタリアの場合はそれはあり得ないことであった。イタリアの降伏とその後は第10話で取り扱うのでここでは割愛するが、ドイツの場合はリッベントロップと夫人が外交のトップにいたために、前代未聞の犯罪行為に手を染めることとなった。元々、野心家のこの夫婦は金持ちになっただけでは満足せず、旧知のパーペンたちの尽力により上流階級の仲間入りを果たしたがこれでも満足せず、1932年にヒトラーに出会ったことにより3年後には全権大使、4年後には駐英大使、6年後には外相へと通常の出世では考えられないスピードで昇進した。あまりにも全てがうまく行きすぎたのであった。外相になったことで自分と妻の会社も順調だったし、オーストリア侵略時のフシュル城をはじめとする幾つもの邸宅、司令部付きの特別列車などナチス党への参加が他の幹部に比べて非常に遅いこともあり批判や嫉妬の格好の対象となった。唯一の親友と呼べるのは親衛隊長官のヒムラーだけだったこともあり、外相就任時の親衛隊少将の制服を着ての全職員との握手に始まり、もう一つのヒトラーの目標であるユダヤ人問題の最終的解決に関わることになっていくのは自然の流れだったかもしれない。第4話のロンドンのドイツ大使館をナチス的な建築様式による大改装するところを思い出してほしい。その内装を手掛けたのがベルリンで建築関連の仕事をしていてリッベントロップ家のダーレムの自宅の内装も手掛けたマルチン ルターであったが、リッベントロップに引き抜かれ外務省に入り親衛隊とのパイプ役を務めることになっていった。
独ソ戦開始により、外交が機能する可能性がある国はアメリカだけとなったが独米関係は悪化の一途を辿っていた。イギリスに対する公然とした援助と大西洋航行のアメリカ船への攻撃や臨検の厳禁など、国内で孤立主義を唱える第1委員会の活動も風前の灯となっていたこともあり独米開戦は時間の問題だった。独ソ戦の間にリッベントロップは何度か独ソ講和休戦をヒトラーに提案しているが全く取り合わず、その政治的地位は不安定なものとなった。おまけに、ナチス高官の中で唯一親密であったヒムラーとSSは独ソ開戦後の特別行動隊であるアインザッツグルッペンの常軌を逸脱した行動にはさすがのリッベントロップも閉口し、外務省内におけるルターを始めとする親SS派の勢力台頭を抑え、在外公館におけるSS 出身の外交官の暴走を抑えようと腐心した。SSの中の旧SA隊員を東欧の大使に任命したことにも表れていた。その一人がクロアチア独立国駐在大使でザグレブに赴任したジークフリート カッシェであったが、ウスタシャの指導者アンテ パヴェリッチと懇意になり、100万人近くが殺されたバルカンのアウシュヴィッツと呼ばれたヤノセヴィッツ収容所へ多数のセルビア人を輸送した責任を取られ、現役大使としては唯一、他のウスタシャ高官と共に戦後死刑になったのであった。1941年末までに特別行動隊により100万人近くが殺害されていたが、モスクワの占領失敗と太平洋戦争とドイツの対米宣戦布告によりドイツの敗戦が濃厚となるのとほぼ同時に、もう一つの遠大な目標であるユダヤ人1100万人の抹殺がベルリン郊外のヴァンゼーで決定された。外務省を代表してルターが出席して、ヨーロッパ占領地区におけるユダヤ人輸送への協力を総督や現地政府に強制した。この会議の議長はRSHA長官ハイトリッヒ、書記がアイヒマンであったが、後者はユダヤ人問題の総統代理となり嫌がる各国に王様のように振る舞った。どんな高官であれ彼には逆らえなかった。ルターを通じて外務省に課された協力は、当然リッベントロップや次官のヴァイツゼッカーも署名し内容も熟知していた。もう一人、組織の中で孤立し閑職に左遷された後も地位の回復にあまりに熱心になりすぎ許されざる犯罪を犯した別名、『ワルシャワの虐殺者』の異名をとるSS大佐がいた。マイジンガーはハイトリッヒの直属の部下であったが、そのあまりの残忍さ故に、ハイトリッヒやのちのデンマーク総督になるヴェルナー ベスト、ゲシュタポ長官となるミュラー、外国情報部門のトップになるシェーレンベルクなどからも白眼視された。SA幹部粛清の長いナイフの夜事件やフリッシュ将軍同性愛疑惑事件などでも暗躍していたが、ポーランド侵略後に編成された特別行動隊、アインザッツグルッペンの指揮官に任命されその残忍さを遺憾無く発揮した。ヒトラーやポーランド総督のハンス フランク、ワルシャワ行政長官のフィッシャーなどはマイジンガーを高く評価していたが、SS本部に彼の居場所はなく1941年4月に東京のドイツ大使館の警察武官として体よく『左遷』された。ドイツの東欧支配によりユダヤ人迫害は徐々に絶滅へと向かいつつあったので、受け入れ先の身元引き受け人がいる幸運なユダヤ人はシベリア鉄道経由で一旦中華民国や日本に到着し好機を見てアメリカへ出国するはずだったが日米関係の悪化と太平洋戦争によりアメリカ行きは果たせず日本や中華民国にとどまった。そこへやってきたのがあのマイジンガーであった。マイジンガーには日本の憲兵や特別高等警察(特高)がある種の親近感を寄せ最後の最後までどういうわけか援助や便宜を惜しまなかった。日本に対してユダヤ人迫害を行わせるのが彼の使命であったが、1938年にユダヤ人問題には加担しないことが決まっていたため日本政府を動かすことは出来なかった。1942年にはユダヤ人が多く集まる上海に出向き日本総領事に具体的なユダヤ人迫害政策を提案したがもちろん断られている。アジアにいるドイツ人への監視も彼の仕事であったが、肝心のゾルゲの本性は見抜けずゾルゲへの監視をし続ける日本を批判さえしている。来日するにあたって、ゾルゲの不審情報を掴んでいたシェーレンベルクの監視要請を無視し酒を酌み交わす仲となった。オットー駐日大使も騙されて重要情報がソ連に筒抜けになっていたわけだからゾルゲ逮捕後は左遷では済まないはずだが、帰国ルートも確保できないのでオットー大使は北京に左遷、マイジンガーは何と不問となった。1945年5月のドイツの降伏によりドイツ大使館職員は箱根と河口湖のホテルに軟禁状態となったが、マイジンガーだけは憲兵や特別高等警察の保護で自動車利用による不審ドイツ人の摘発を続けシュターマー前大使もマイジンガーを庇い続けたことに他の職員が日本外務省に善処をお願いしても無駄だった。結局、日本の降伏後の1945年9月に箱根の富士屋ホテルにアメリカ軍が到着してマイジンガーの逮捕となった。その後ワルシャワに送還されワルシャワ行政長官のフィッシャーらと共に死刑判決を受け絞首刑となった
ドイツにとってイタリアが最も厄介な国であった。それは軍事的な面だけでなくユダヤ人輸送の点についても同じであった。元々ドイツほどのユダヤ人迫害の土壌がなかったこともありいくらヒトラーやリッベントロップがイタリアに協力を依頼しても非常に消極的であった。ドイツ外務省の文書にもイタリアだけは大臣が直接チアノ外相に交渉と書いたものもあった。しかし、1943年7月のイタリア降伏後となると事情は全く異なってくる。イタリア軍が占領していた南フランスも1942年11月のドイツ軍進駐後はユダヤ人移送が本格化したのと同じく、エーゲ海のロードス島もドイツ軍が進駐しクレーマン将軍によるユダヤ人移送が開始されることとなった。この時、2000人ほどのユダヤ人の中の50人ほどのトルコ系ユダヤ人移送をクレーマン将軍に断念させたのがトルコ領事の『トルコのシンドラー』セラハテイン ウルクメンであった。他のユダヤ人はアウシュヴィッツなどに移送されほとんどが戻らなかった。『日本のシンドラー』杉原千畝、『中国のシンドラー』ウイーン領事の何鳳山、『満州国のシンドラー』ベルリン公使館員の王替夫、『ポルトガルのシンドラー』ボルドー領事のソウザ メンデスらが外交官の中でユダヤ人に対して通過ビザを上司や本国の外務省の訓令に反して発給した点は共通していた。この中で1番酷い待遇を受けたのはソウザ メンデスであろう。ポルトガルはサラザール政権下の親独中立でビザ発給の1940年は隣のスペインと同じく完全に親独であったから、発覚後すぐに首になり12人の子供を抱え周囲の友人達からも見放され困窮した。次に酷い待遇を受けたのは王替夫であろう。満州国は要職が日本人で占められ王の上司も日本人であったため監視下でのビザ発給となった。発覚後終戦までは杉原と同じく職に留まったが日本の降伏に伴う満州国の消滅によりソ連と中国で長いこと抑留された。そして杉原千畝であろう。オーストリア併合後の1938年、ウイーン総領事の山路章がユダヤ人の取り扱いを本国に打診したことで五相会議での『日本入国は不可、通過なら可』と決定したが当時は日独伊三国同盟の締結時期でもありドイツ側を刺激した。ケーニヒスベルク駐在時には行政長官のコッホに睨まれ、最後のルーマニアのブカレストでもナチス張り鉄衛団のアントネスク支配下で常に監視の対象となった。そもそも、1938年のドイツのチェコ解体時に、リッベントロップ外相による大使館公使館の即時退去命令が出された席上、杉原がリッベントロップに向かってドイツ語で『ドイツに言われる覚えはない。理由を説明せよ』といったことに始まり、1941年8月のRSHA長官のハイトリッヒのリッベントロップへのドイツの日本人スパイリストの筆頭に杉原は載っていたこともあった。帰国後の戦後の1947年、杉原に一通の文書が届いた。実質上の退職勧告書であった。ナチス亡き後杉原の行動は称賛されて当然だが、本国や上司の命令無視という点がこの時点においても重要視されたのであろう。杉村陽太郎駐仏大使や外相の広田弘毅らには好かれたが、早稲田大学時代からその言動が目立ってはいたが、キャリア外交官でなかった杉原はやはり目立ちすぎたのかもしれない。本人は寡黙な方で何も抗弁などせず晩年を過ごした。
独ソ戦開始により、外交が機能する可能性がある国はアメリカだけとなったが独米関係は悪化の一途を辿っていた。イギリスに対する公然とした援助と大西洋航行のアメリカ船への攻撃や臨検の厳禁など、国内で孤立主義を唱える第1委員会の活動も風前の灯となっていたこともあり独米開戦は時間の問題だった。独ソ戦の間にリッベントロップは何度か独ソ講和休戦をヒトラーに提案しているが全く取り合わず、その政治的地位は不安定なものとなった。おまけに、ナチス高官の中で唯一親密であったヒムラーとSSは独ソ開戦後の特別行動隊であるアインザッツグルッペンの常軌を逸脱した行動にはさすがのリッベントロップも閉口し、外務省内におけるルターを始めとする親SS派の勢力台頭を抑え、在外公館におけるSS 出身の外交官の暴走を抑えようと腐心した。SSの中の旧SA隊員を東欧の大使に任命したことにも表れていた。その一人がクロアチア独立国駐在大使でザグレブに赴任したジークフリート カッシェであったが、ウスタシャの指導者アンテ パヴェリッチと懇意になり、100万人近くが殺されたバルカンのアウシュヴィッツと呼ばれたヤノセヴィッツ収容所へ多数のセルビア人を輸送した責任を取られ、現役大使としては唯一、他のウスタシャ高官と共に戦後死刑になったのであった。1941年末までに特別行動隊により100万人近くが殺害されていたが、モスクワの占領失敗と太平洋戦争とドイツの対米宣戦布告によりドイツの敗戦が濃厚となるのとほぼ同時に、もう一つの遠大な目標であるユダヤ人1100万人の抹殺がベルリン郊外のヴァンゼーで決定された。外務省を代表してルターが出席して、ヨーロッパ占領地区におけるユダヤ人輸送への協力を総督や現地政府に強制した。この会議の議長はRSHA長官ハイトリッヒ、書記がアイヒマンであったが、後者はユダヤ人問題の総統代理となり嫌がる各国に王様のように振る舞った。どんな高官であれ彼には逆らえなかった。ルターを通じて外務省に課された協力は、当然リッベントロップや次官のヴァイツゼッカーも署名し内容も熟知していた。もう一人、組織の中で孤立し閑職に左遷された後も地位の回復にあまりに熱心になりすぎ許されざる犯罪を犯した別名、『ワルシャワの虐殺者』の異名をとるSS大佐がいた。マイジンガーはハイトリッヒの直属の部下であったが、そのあまりの残忍さ故に、ハイトリッヒやのちのデンマーク総督になるヴェルナー ベスト、ゲシュタポ長官となるミュラー、外国情報部門のトップになるシェーレンベルクなどからも白眼視された。SA幹部粛清の長いナイフの夜事件やフリッシュ将軍同性愛疑惑事件などでも暗躍していたが、ポーランド侵略後に編成された特別行動隊、アインザッツグルッペンの指揮官に任命されその残忍さを遺憾無く発揮した。ヒトラーやポーランド総督のハンス フランク、ワルシャワ行政長官のフィッシャーなどはマイジンガーを高く評価していたが、SS本部に彼の居場所はなく1941年4月に東京のドイツ大使館の警察武官として体よく『左遷』された。ドイツの東欧支配によりユダヤ人迫害は徐々に絶滅へと向かいつつあったので、受け入れ先の身元引き受け人がいる幸運なユダヤ人はシベリア鉄道経由で一旦中華民国や日本に到着し好機を見てアメリカへ出国するはずだったが日米関係の悪化と太平洋戦争によりアメリカ行きは果たせず日本や中華民国にとどまった。そこへやってきたのがあのマイジンガーであった。マイジンガーには日本の憲兵や特別高等警察(特高)がある種の親近感を寄せ最後の最後までどういうわけか援助や便宜を惜しまなかった。日本に対してユダヤ人迫害を行わせるのが彼の使命であったが、1938年にユダヤ人問題には加担しないことが決まっていたため日本政府を動かすことは出来なかった。1942年にはユダヤ人が多く集まる上海に出向き日本総領事に具体的なユダヤ人迫害政策を提案したがもちろん断られている。アジアにいるドイツ人への監視も彼の仕事であったが、肝心のゾルゲの本性は見抜けずゾルゲへの監視をし続ける日本を批判さえしている。来日するにあたって、ゾルゲの不審情報を掴んでいたシェーレンベルクの監視要請を無視し酒を酌み交わす仲となった。オットー駐日大使も騙されて重要情報がソ連に筒抜けになっていたわけだからゾルゲ逮捕後は左遷では済まないはずだが、帰国ルートも確保できないのでオットー大使は北京に左遷、マイジンガーは何と不問となった。1945年5月のドイツの降伏によりドイツ大使館職員は箱根と河口湖のホテルに軟禁状態となったが、マイジンガーだけは憲兵や特別高等警察の保護で自動車利用による不審ドイツ人の摘発を続けシュターマー前大使もマイジンガーを庇い続けたことに他の職員が日本外務省に善処をお願いしても無駄だった。結局、日本の降伏後の1945年9月に箱根の富士屋ホテルにアメリカ軍が到着してマイジンガーの逮捕となった。その後ワルシャワに送還されワルシャワ行政長官のフィッシャーらと共に死刑判決を受け絞首刑となった
ドイツにとってイタリアが最も厄介な国であった。それは軍事的な面だけでなくユダヤ人輸送の点についても同じであった。元々ドイツほどのユダヤ人迫害の土壌がなかったこともありいくらヒトラーやリッベントロップがイタリアに協力を依頼しても非常に消極的であった。ドイツ外務省の文書にもイタリアだけは大臣が直接チアノ外相に交渉と書いたものもあった。しかし、1943年7月のイタリア降伏後となると事情は全く異なってくる。イタリア軍が占領していた南フランスも1942年11月のドイツ軍進駐後はユダヤ人移送が本格化したのと同じく、エーゲ海のロードス島もドイツ軍が進駐しクレーマン将軍によるユダヤ人移送が開始されることとなった。この時、2000人ほどのユダヤ人の中の50人ほどのトルコ系ユダヤ人移送をクレーマン将軍に断念させたのがトルコ領事の『トルコのシンドラー』セラハテイン ウルクメンであった。他のユダヤ人はアウシュヴィッツなどに移送されほとんどが戻らなかった。『日本のシンドラー』杉原千畝、『中国のシンドラー』ウイーン領事の何鳳山、『満州国のシンドラー』ベルリン公使館員の王替夫、『ポルトガルのシンドラー』ボルドー領事のソウザ メンデスらが外交官の中でユダヤ人に対して通過ビザを上司や本国の外務省の訓令に反して発給した点は共通していた。この中で1番酷い待遇を受けたのはソウザ メンデスであろう。ポルトガルはサラザール政権下の親独中立でビザ発給の1940年は隣のスペインと同じく完全に親独であったから、発覚後すぐに首になり12人の子供を抱え周囲の友人達からも見放され困窮した。次に酷い待遇を受けたのは王替夫であろう。満州国は要職が日本人で占められ王の上司も日本人であったため監視下でのビザ発給となった。発覚後終戦までは杉原と同じく職に留まったが日本の降伏に伴う満州国の消滅によりソ連と中国で長いこと抑留された。そして杉原千畝であろう。オーストリア併合後の1938年、ウイーン総領事の山路章がユダヤ人の取り扱いを本国に打診したことで五相会議での『日本入国は不可、通過なら可』と決定したが当時は日独伊三国同盟の締結時期でもありドイツ側を刺激した。ケーニヒスベルク駐在時には行政長官のコッホに睨まれ、最後のルーマニアのブカレストでもナチス張り鉄衛団のアントネスク支配下で常に監視の対象となった。そもそも、1938年のドイツのチェコ解体時に、リッベントロップ外相による大使館公使館の即時退去命令が出された席上、杉原がリッベントロップに向かってドイツ語で『ドイツに言われる覚えはない。理由を説明せよ』といったことに始まり、1941年8月のRSHA長官のハイトリッヒのリッベントロップへのドイツの日本人スパイリストの筆頭に杉原は載っていたこともあった。帰国後の戦後の1947年、杉原に一通の文書が届いた。実質上の退職勧告書であった。ナチス亡き後杉原の行動は称賛されて当然だが、本国や上司の命令無視という点がこの時点においても重要視されたのであろう。杉村陽太郎駐仏大使や外相の広田弘毅らには好かれたが、早稲田大学時代からその言動が目立ってはいたが、キャリア外交官でなかった杉原はやはり目立ちすぎたのかもしれない。本人は寡黙な方で何も抗弁などせず晩年を過ごした。